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インドのアシュラム 真実を見つける旅へ~「修行しても、悟られへんわ」

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写真:結婚したばかりの林晶彦さん智子さんご夫妻。ラヴィ・シャンカールとインドにて。

  • 日本に帰ってきてから、昔の友達に会ってみると、ちょうどその頃大学生だった友人たちは、スポーツカーを乗り回して遊んでいたりで。物が溢れて、何の苦労もなく生きている日本の若者と、兵役がある中で真剣に生きているイスラエルの若者たちとは全然違ってた。
  •  そのときに、ぱっと手にとった本がバグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)の「存在の詩」という本と「究極の旅」という本でした。自分の中で解明されていない疑問や真実が得られるような気がしました。中学の頃から、真実を見つけられなかったら、生きている意味がないと思っていましたから、インドにいるOSHOに会いに行きたくなった。
  •  1980年、インドに行きました。はじめは、僕一人でOSHOのアシュラムに行って修行するつもりでしたが、彼女(智子さん)も一緒に行くっていうんですよ。それを親に言ったら、「結婚もせんと一緒に行ったらあかん」て言われて。それなら、結婚して行ったらいいやんってことになり、結婚式をあげて、一緒にインドに行きました。
  •  OSHOにも直接会って、ダルシャンっていうのを受けたんです。エナジーダルシャンって言って、直接、額に手で触れてくださるんですけど、そのときに目を開けたらだめだって言われていたんですけれど、僕は目を開けていたんですよ。そうしたら、もうOSHOの目がすっごい綺麗でね。目の向こうに銀河系が広がっていて、透明なんですよ。目の中に宇宙が広がっていた。見てよかったと思って。
  •  アシュラムでは、いろんなことやったんですけどね。僕自身は修行をしても、悟られへんわって思ったんです。それよりも旅をしたいと思ったので、インド中を周ることにしました。
  •  その間に、ラヴィ・シャンカールにも会ったんです。日本公演に来た際に、本にサインをもらっていて、住所も書いてくれてたんです。だから、その住所をたどって行ったんです。ガンジス川のほとりにありました。
  •  ガンジス川では、火葬をしていたり、川の水を飲む人もいたり、いろんなものが混沌としていましたね。なんか踏んだなと思ったら、人の骨やったりしてね。生と死が入り交じっているような・・インドは、境界線がないような、本当に不思議なところでした。

世界的パーカショニスト ツトム・ヤマシタとの出会い
~救われた音楽の道 「愛は勇気なり」

山下ツトム2.jpg写真:林青年が魅了されたヤマシタさんのドラム。(撮影:Akihiko Hayashi)

  • 日本に帰国後、そうこうしているうちに、音楽で生きていくのが経済的にとても大変になってきて、親にも友達にも音楽をやめろって言われました。でも、せっかくここまで続けてきたのに、という思いもあって、簡単にはやめられない。
  •  それでも、北海道に行って農家とかしようかと考えているときに、ツトム・ヤマシタという世界を一世風靡したパーカッショニストが、10年ぶりに京都でカムバックコンサートをすると知ったんです。パリにいたときに、オランピア劇場で行われたヤマシタさんの演奏を聴きに行っていたんです。その時はイギリスのロックバンドで、レッド・ブッダというグループを作って活動していて、すごい人気でした。ジョン・レノンと同じぐらい人気があると言われていたほどで、素晴らしい才能を持ったアーティストでした。そのころは、指揮者の小沢征爾さん、ツトム・ヤマシタさん、武満徹さんが世界でとても注目されていた時代です。

  • そのヤマシタさんの京都でのコンサートに、3日間毎日通いました。とても不思議なコンサートで、入口からの空間がひとつの美術になっていたり、演技をしながら音楽を奏でたり、総合芸術なんです。シンセサイザーで作ったオーケストラの音をバックに流し、サヌカイトという隕石を叩くのですが、その音は、日本人にしか出せないような音でした。
  •  3日間通って、このまま帰られへん、会いに行きたいって思ってね。係の人に、「パリに留学していて、17歳のときにヤマシタさんのコンサート観て、とても感動していたんですけれども、会わせてもらえないでしょうか?」って言ったら、「ちょっと待っててください」って言われて。それでヤマシタさんが出てきて、入ってもいい許可が出たんです。入ったら僕ひとりだけだったんですよ。3日間演奏やって、ものすごい疲れているでしょ。楽屋にひとり座ってらしたんですね。そこに、海のもんか山のもんかわからへんもんが入ってきたもんで、ヤマシタさんも関西の人やから、「なんや?」って一言、言われて(笑)。
  •  「あの、実は僕は17歳の時からパリに行って、そこでヤマシタさんの演奏を聴いて、とても感動したんです。それからイスラエルにも行って帰ってきてそれから音楽を続けてきたんですけれども、もう音楽で生きていかれへんようになって、今はもう音楽やめようと思ってる時にヤマシタさんのコンサートがあったんで、来たんです」と言ったんです。そしたら、「あぁ、そうか」って言ってね。それで、パッと立ってこちらに寄ってきて・・・初対面ですよ。向こうは、世界のツトム・ヤマシタでしょ、神さんみたいな、もう憧れの・・・そしたら「君、ちょっと手、出してみ」って言うんですよ。僕がぱっと手を出したら、自分の手を僕の手の上にを重ねて「ん~~~っ!!」って、真っ赤な顔になってこうやってくれたんです。それで「僕の力、全部、君にあげるわ」って言うんですよ。初対面5分で、僕の才能とか力とかも全部君にあげるって言って、それを注入してくれたんです。注射みたいに。
  •  更に「君、こんな言葉知っているか?『愛は勇気なり』」と言われたんです。で、もう涙ぽろぽろになってね。もう音楽やめようっていう時に、ヤマシタさんが僕のためにグゥーッと念力くれて、共に祈ってくれて・・・『愛は勇気なり』」というその言葉が頭の中を駆け巡った。
  •  それから、ヤマシタさんが「片付けがあるから、君も手伝ってくれるか?」と言うので、手伝っていたんですね。すごく大事なサヌカイトという隕石を、きちんと梱包していたつもりだったのですが、やっている時にポーンと落ちたんです・・・パリンといって・・・。その石は、国宝の物で、ヤマシタさんがどこかから借りてきたものでした。そしたら、女の人がこっちを見ていて、僕はそれをとっさにわからないようにして、ぱっと隠したんです。というのは、僕が割ったと言っても、弁償ができない。少なくとも300万円とか、きっともっとと言われるでしょう?それでなくても、行き詰まっているでしょう?もう命で返さなきゃあかんっていうね、家族もみんな売って、子供たちも奴隷にしなきゃあかん・・・。それがぱっと浮かんで、それで隠したんですよね。そのままにして他の片付けとかやって。

  • 片づけが終わって、「打ち上げするから、君もおいで」って言われて、ヤマシタさんの横にずっとすがりついて、いろんな話を朝5時まで聞きました。その時はもう、サヌカイトを割ったことなんて忘れて、ヤマシタさんといろんな話ができたことに有頂天になって帰ってきました。
  •  1週間位後、ヤマシタさんから電話がかかってきたんです。「実はひとつサヌカイトが割れていて、君、片付けをしてくれていたけど、割った覚えないか?」って言われて。そこで、とっさに出たのが、「いや、僕知りません。僕じゃないです」という言葉でした。「それやったらいいけどな。演奏者が割ったか、片付けした人が割ったかで、弁償の仕方が違うから。じゃ、いいわ」って言って、電話を切って。

  • 3L-01449a[1].jpg写真:STOMU YAMASHITAレコードジャケット。
  • それから半年以上経って、ヤマシタさんからまた電話があって、「今度、京都で、国際フェスティバルを開きたいと思っていて、それは以前からやりたかった自分の夢で、世界五ヶ国からいろんな人を呼んでやるんやけど。で、君はどんな音楽を作っているのか聴いてみたいんやけど」って言われたんですね。そんな夢みたいな話でしょう?その音楽祭に出演する人は、マイケル・ナイマンというピアニストとか、ベルリン・フィルの人とか、ハービー・ハンコックとか、もう超一流の人ばっかり。でも、僕にものすごく親切にしてくれているのに、僕はサヌカイトを割って裏切っている、という罪悪感でとても苦しかったんです。それで、どうしたらいいのかわからんようになって・・・。

  • それで近くに潰れそうな教会があったんですけど、そこにはバッハの音楽がすごく好きな牧師さんがいて、相談しに行ったんですよ。「実は僕、ヤマシタさんの大切な物を壊してしまって・・・でもヤマシタさんから今こういう話があって、とても親切にしてもらっているのに、どうしたらいんでしょうか?」って言ったら、牧師さんが「そら、林君が悪いわ」って言って。「すぐヤマシタさんに本当のこと言って謝りなさい。今、祈るから」って言って、聖書に手を置いて、祈ってくれた。「それでヤマシタさんに縁を切られてもええやんか。神様はもう林君を許してくれたからね。もう神様が許してくれたから、気持ちが楽になるから。今すぐ帰って、電話かけて」と言われました。
  •  それで家に帰って、自分からもうちゃんと言おうと思いながらも、心のどこかでは、電話に出なかったらいいのに、とも思いながら、ダイヤルを回した。そしたら、リーン、パッ!と、すぐ、出た。それも他の人が出てきたらいいのに、ヤマシタさん本人が出てきて、また、「なんや?」って言われた。僕は「あの~、あの~」って、言えなくなってしまって。言ったら、怒鳴られて、縁を切られると思っていますから。
  •  「あの~、あの~、1年前のことですけど、あのサヌカイトを割ったのは僕なんです」って言ったんですよ。そしたらね、シーンとなって・・・それからヤマシタさんが、「あぁ、そうか、君、辛かったやろ。普通の人やったら、一生隠し通すやろうけど、君は1年で言えたやないか、僕、うれしい」って、山下さんが電話の向こうで泣いてはって。僕も涙がバーッと出て、その時ほど神様感じたことなかった。すっごい神様が間に立っていてくれた気がした。ヤマシタさんは許してくれて、誰にも言わずに自分で弁償してくれはった。
  •  そして、電話の最後に、「ヤマシタさんのところにテープを持って行ってもいいんですか?」と聞いたら、「おいで」って言ってくれた。

  • yamashita.jpg写真:演奏中のツトム・ヤマシタ(HPより*)
  • それで、今までの録音したテープ、音の悪いのもいろいろ10本ぐらい持っていったんです。そうしたら、一曲一曲、目をつぶって真剣に聞いてくれました。「この曲はどういうときに作ったんや?」とか、「これはどういう心境で作ったんや?これは何を表現してるんや?」って、聞いてくれながら。
  •  フェスティバル開催のための会議では、ヤマシタさんが僕を押してくれて、出演できるようにしてくれたんです。僕、全然無名で、他の人たちはすごい人たちばかりなのに、「45分間時間あげるからそこで何をしてもいい、好きなようにしていいから」って。フェスティバルのプログラムにも、マイケル・ナイマンと同じような大きさで載ってた。同じギャラ、同じスペース、同じ時間で。時間枠も、夜の8時からのいい枠を作ってくれて、ヤマシタさんが僕をデビューさせてくれたんです。
  •  終わってから、ヤマシタさんに感謝の挨拶をしに行ったんですよ。言葉にならなかったけど。そうしたら抱きしめてくれて、また涙が出てきた。そしてヤマシタさんが―

  • あのなぁ、君、これからも苦しいこととかいろんなこともあるかと思うけど、どんなに苦しくても、どんなになったとしても、音楽だけはやめたらあかんで。いろんな音楽家を見てきたけど、2~3年で消えてしまう音楽家がたくさんいる。だから、お金の理由なんかで、だめになったらあかん。他の人と比べて、あぁいう風になりたい、こういう風になりたいと思わんと、自分に与えられているもの、本質的なものを求めて、自分を高めていきなさい」」と言ってくれた。すごく励ましてくれた。
  •  ヤマシタさん自身も、世界の頂点に立ったときにマネージャーからお金を持ち脱げされたり、麻薬を打たれて知らない場所に捨てられそうになったり、マフィアに殺されかけたりとか、そんなこともいっぱいあったそう。大金が動く時は、そういう風なことがあるそう。だからそういう関係の人たちとは一切縁を切って、日本に帰国して、10年間お寺にこもって自分を見つめていたらしいんです。ヤマシタさんは僕の音楽の恩人です。
  • ツトム・ヤマシタHP http://www.redbuddha.co.jp/