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ザンスカールで聴いた自然の“うた”を損なうことなく伝えるために
EARTH-LOVE WORKS代表 塩原基弘さん

2010.07.12 update|インタビュー

塩原さん(以下)インタビュア:旭享子・マヤカ 撮影:マヤカ

自然は限りなく美しいもの。そして、ただ美しいだけでなく、とても厳しいもの。厳しいからこそ、存在そのものが美しいのでしょう。クリスタルもまた、その象徴のような美しさがあります。何億年というはてしなく永い時間、地中に眠り、圧迫され、やっと地表に現れたから生まれる輝き。その美しさ。クリスタルは旅をして私たちの手元にやってきています。その奏でる“うた”を聞く塩原さん。その“うた”を奏でるままに届けたいと願う。今回は、その塩原さんの石に至る旅のお話を伺いました。

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上から“レインボーボージー” ”メタモルフォーシス” ”スーパーセブン”

探検部から辺境の旅人へ

━━━まずは石との出会いをお話いただけますか?

  • :石との出会いの前に、少し自分のバックボーンをお話しますね。 僕は大学生(東京農大)のときに、探検部という変わった部に入っていて、勉強そっちのけで、常に探検部の活動ばかりしてたんですね。知りたいことがあったら、徹底的に調べてどこでもでかけていくというのが探検部の活動なんです。学生なのでたいしたことはできないんですけど、僕は外国の人たちの生活や文化に興味があった。しかも、交通手段もないような場所に住む人たちに強い興味があったんですね。だから、在学中は山を登ったり、ラフティングなどをして腕を磨き、ついには我慢できずに大学を中退してしまって、海外を放浪の旅に出てしまったんです。
  •  ネパールやインドの北部の高地、ラダック地方やザンスカール地方をトレッキングしたり。そこは、標高4000メートルぐらいのところなんですが、村が転々とあるだけなんですよ。もちろん、交通機関は発達しておらず、場所によっては歩きでしか通れないような道を使って移動していました。情報も少なく、素朴な暮らしぶりながらチベット仏教徒として、とても精神的に深い文化を持っている、そんな美しい暮らしぶりに感銘を受けて。そういった旅を4年くらい続けていました。

━━━4年間ずっとですか?生活はどうしていたんですか?

  • :最初の一年は、日本で肉体労働をして稼いだお金を持って。お金がかからないんですよ。若かったし、どんなところでも寝られるし。なるべく切り詰めて、お金がなくなったら、オーストラリアに移動しておみやげ物屋で働いて、またお金ためてニューギニアのジャングルに行ったりしてました。

バリのバイブレーションにインスパイアされて

  • :その後、インドネシアに流れ着いた。インドネシアのバリ島は観光地で生活の手段もあったし、また、土地の文化がすごく色濃く残ってる面白い場所だと思ったんですね。そこで、目に見えないバイブレーションというものを非常に強く感じたんです。ずっとハードな旅を続けてきて蓄積してたまってきたものと、バリ島の居心地のよさ。リラックスできるじゃないですか。体もゆるむし。たまってきていたものと、身の回りのバリのバイブレーションというのが、何だろう、化学変化みたいなのを起こして絵を描き始めたんですよ。

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左 “WILL-O-WISP"
右 “DE・A・I"

━━━それまで描いてなくて?

  • :一切描いたことなくて。でも、どんどん自動書記みたいに描き始めた。そのとき、目に見えない世界ってあるんだなあと、思いました。。あまりお金もなかったんで、画材もろくになくてペンキで描いてたんですけどね。

━━━実物のサイズは?

  • :小さいのでこのテーブルの半分くらい。大きいのだと畳一枚くらい。

━━━なんか、メッセージみたいものを感じましたか?

  • :ことば的なメッセージはなかった。バリにはいろいろなところに神様が降りてくるための棒が立ってたりするんですよね。何かバイブレーションが入ってくる感じがして、そうすると今まで旅で見て来たものとか感じたものとか、今、その場にいることとかをどうしても表現せざるを得なくなった。

━━━回路が開いちゃったという感じでしょうか。それまでも、そういった敏感なところはあったんですか?

  • :家の周りに白いものが飛んでたりといったことを見たりしていました。別に怖くはないんですよ。小さいからすごいストレートに親に言うじゃないですか。親はびっくりしてすごくしかられて、「ことばにしたらだめなんだ」と押さえ込んでいました。
  •  大学生になって、探検部に入って、大自然に触れ、その厳しい自然の中で暮らしている素朴な人たちに触れたりしているうちに、思い出してきたんです。何が物事の本質なのか、それが、実はずっと気になっていたんですよ。表面に見えているものじゃなくて、その奥にあるもの。何が人間の本質なのか、宇宙ってどういう成り立ちなのか。それが強かったために、探検部に入ったり、放浪したりしてたんですよね。それが旅の目的だった。命の危険に遭うようなこともいろいろあったんですけど。
  •  当時、僕が歩いていたのは、シンゴラ峠(標高5,090m)からザンスカールに入るルートでした。そこはツーリストもあまり入ってこないような場所でした。そんな辺境の地です。お金がないからポーターとかももちろん雇ってないし、食糧もすべて自分で運んでいくんです。途中で食糧が足りなくなったりとか、慣れてないから高山病になったり。
  •  あるとき、峠の手前にさしかかったときに動けなくなってしまった。そこで、3日間くらい動けずに一人でテント張って耐えていたんです。周囲にはもう7000m級の山しかない。森林限界を超えた場所でした。緑のない世界。まるで月面にいるようだったんですが、そのとき、自分が自然の一部なんだということを心の底から感じました。高地なので酸素が薄いから頭も飛んじゃってるところがあって、地球の上にポツンと乗っかって、その地球が動いているのがわかる、実感できるんです。地球が太陽の周りを回っているのも実感できるし、月からの距離も実感できる。月が昇ると光がさす。この光が一瞬前の光なんだってことがすごいわかってしまう。そんな極限状態の中で感じた真実、それを一人旅だから、どこにも表現する場がなくって。それがバリ島で炸裂したって感じなんです。

絵はそれなりに売れたけれど、周囲から嫉妬を受けたりして塩原さんはまた旅に出ます。そして、旅の途中で出会った女性と結婚。子供も生まれ、サラリーマン生活を送ります。ただ、その生活にはどうしても満たされない思いがあった。そこで、自由を求めて飲食店の経営をし、そのときにボージーというひとつの石に出会います。